ハマっとります。
とうとう勉強に乗り出しました 笑
お能を観に行った時にさらに楽しめそう。
今回は”井筒”という演目について。
いやあ、おもしろいですわ〜
お能のおもしろいところは
観客と演者の境目がないというところ。
”井筒”の舞台に置かれる竹で作られた井戸。
この井戸は舞台の一番前、観客のすぐ前、ギリギリのところに置かれている。
ふつうの舞台なら舞台の真ん中に置くはずの井戸。
わざわざ舞台の前のいちばん端っこ、観客とのちょうど真ん中に置くことで観客の空間も見えない舞台となる。
この空間作りがなんとも日本的というか、お能らしい。
演者と観客が同じ空間を体験する。
それぞれの感情を味わうんです。
映画やお芝居とは違なるもの。
安田登さんのいうところの”あわい”。
あわいとは間とかいう意味なのですが、今の私たちにとって大切なキーワード。
なんでも白黒ハッキリさせる、これはイイ!これアカン!と決めつけるのではなく歩み寄る余裕というか。
ハンドルでいう”遊び”みたいなもんかなあ。
”あわい”は豊かさを生むんじゃないかなって思う。
お能はそのあわいの空間で自由に個々が遊べる。
人間が持つ感情は人の数だけあってそれぞれ違うけれど、どこかで繋がって同じものを感じているのかもしれないなーと思うんですよ。
今読んでいる「日本人の身体」
「古い日本語の”からだ”というのは死体という意味でした」
”からだ”の語源は”殻”なんだそう。
おお!ストゥーラシャリーラ(食べ物で出来た身体)やん。
「”膝”といえば、ピンポイントの膝頭ではなく太腿の前側全体を指し、”肩”といえば肩峰のみならず、首肩周りの”界隈”を指す・・・おおざっぱであり、曖昧であり、細かいことは気にしなかったはずの日本人身体観。ところが現代のからだに関する志向性はこれに逆行している。
〜中略〜あまり細かいことは気にしない、これが少し前の日本人でした。」
おおざっぱさや曖昧さ。
これが人と人との距離を豊かにしているように思う。
何か許せないことやムカつくことがあっても曖昧さやおおざっぱさが歩み寄る余裕を生むんちゃうかな。
ヨーガの教えは”すべてはおんなじ”ってゆうよね。
自分と違うやん!なんでやねん!
が”まーそーゆーこともあるかもなー”とか”私はそんな考えはできひんけど、そんな考え方もあるんやな”とか”許されへんけどもうええか”になってくのがヨーガやと思うねん。
お能は人間としての感情を豊かに味わう楽しみを教えてくれる。
人間という姿だけではなく幽霊になってもまだ有り余る人の”こころのゆらぎ”
それを味わいつくすとその感情は浄化されていく。