2020年1月25日土曜日

お能。


数年前”あわいの力”という本を読んでからお能に興味が湧くようになった。
”お能が観てみたい”
今年はご縁あって念願叶い、2度も薪能を観に行って来ました。
初めて観たお能。
もう釘付けですわ!
謡、笛、鼓。
そぎ落とされた所作。
ただただ凄い!としか言いようがない。
そしてまた”あわいの力”を読み返してますが、やっぱりこの本素晴らしい。
もう全部が私にとって教本です。
 
未来を決めるリズムと「今」を刻む拍子
すごく簡単にいうと、リズムというのは、今の時点で存在しない未来をあらかじめ決めてしまうことです。
たとえば四秒子の曲があるとします。 指揮者は指揮棒を構えて一拍(一拍目の直前の一拍)を振る。
するとそれに続く一拍目、二拍目がどうくるかが予測できます。 それは棒を振った時点で、そこにはまだ存在しない未来の時間が決まっていくのです。
つまり、四拍子というのは、未来の時間をあらかじめ確定し、それを四等分すること。
指揮者が一拍の長さを示すことで、それに続く未来が決まっていくのです。 対して、「今」を刻むのが拍子です。未来がどうなるかはわかりません。
拍子はその時の場所にいる人の呼吸で決まります。 西洋音楽に慣れた身には、この感覚がなかなかわかりませんでした。
が、日本の歌の拍子は、これが基本になっています。
たとえば鞠つき歌です。 西洋音楽のリズムに慣れた今の子たちは、自分が決めたリズムに合わせて鞠をつこうとします。
すると、鞠の弾み方が狂うと途端に鞠つき歌が歌えなくなったり、鞠を撮り損なったりします。
鞠つき歌の本来の姿は、鞠の弾みに合わせて歌を歌うことです。言うなれば、鞠つき歌をどう歌うかは、鞠が決めているのです。
今とは違って、整地されていない地べたに向かってつく鞠です。未来の鞠の弾み方は、鞠をついている人にも予測できません。
「今」の弾みに合わせて歌を歌う。それが「今」を刻むということであり、「今」の連続が拍子を作っています。
拍子には、常に「今」の一拍目しかないということもできます。

メロディは絶対的、節は相対的
節とメロディも全く違います。 メロディが絶対的なら、節は相対的。
一オクターブを七つの音階に均等に分けて、その流れでつくっていくのがメロディですが、能の節には大雑把にいうと、「上・中・下」の3つの相対的な音しかありません。 メロディは絶対音階、周波数の違いで音を客観的に決めることができますが、節はそうはいきません。
(略)謡い手の気分とか、場の雰囲気とか、そういうもので節は変化します。
「そこまで下がっちゃ変だよね」というラインはなんとなくありますが、西洋音楽のような、譜面で「ド」と書かれているから「ド」の音を出さなきゃいけないという縛りはありません。
節を作る上で重要なのが、腹の感覚です。お腹の力の入れ方、緩め方ひとつで、節は大きく変わります。これは譜面では書けません。
だから能の謡に譜面はなくて、簡単な符号と、あとは口承と対面の稽古を通じて、身体で学んでいくしかないのです。
そいいうことは、決して口では説明されません。 こっちは師匠の謡の音階(メロディ)やリズムをまねて謡い、うまくできているつもりなのに、師匠からは「違う!」と怒られる。 「音を上げるときは腹の力で上げろ」と言われ、同じように謡っているつもりが、それでは「音(メロディ)で上がっている」と怒られる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「今」に集中することであったり。
相対的な音しかないということもサンスクリット語で唱えるチャンティングとおんなじ。
お能とヨーガってほんま一緒やんって思う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ただ師匠の真似をする
ですから能の稽古というのは、ただひたすら師匠の真似をするだけです。論理的な説明はまったくなく、発声練習をすることもなく、いきなり本番と同じように、ただ真似をしなさい、という稽古です。声の出し方だけでなく、摺り足や型の稽古なども全てが同じやり方です。
説明がないし、メソッドもないのですから、どうやればいいかはもちろんまったくわかりません。やってみて師匠が「これ」と思っているものと違っていると、ただ怒られる。でも、どう違うかの説明がない。西洋的な「レッスン」に慣れた人からするとまったく理不尽な世界でしょう。
しかし、それがいい。
言葉で説明をしてしまうと違うものになってしまいます。技術論や感情の話になってしまう。だから教える方としても説明はできないのです。
また、能に限らず、日本の芸事のお稽古をした方ならば、師匠と弟子の関係が、いわゆる「先生」と「生徒」との関係とは全然違うということもご存知でしょう。稽古の場を離れても師匠は絶対です。
それは日本の芸道で伝えるべきは、いわゆる技術や手法ではなく、いわくいいがたいもの、まさに「心(しん)」だからなのです。
それはいわゆる稽古だけからは伝わりません。師の一挙手一投足をまねするところから始まります。
日常そのものが稽古なのです。
無心になるというか、己を消すというか、対象と一体化して黙々とやることによってはじめて伝わることがあります。

「こころ」ではなく「心(しん)」を学ぶ
稽古は「心(しん)」の状態に到達することを身体で学ぶ場です。
そのためには表層にあるものをできるかぎり捨て去らなければなりません。
うまくやろうとしない。ただ、ひたすら懸命にまねる。それが大事です。
ただまねる。それも表層ではなく、師の緊張感というか、気迫をまねる。
それによって自分の根が培われます。アンカーの部分がしっかりしていれば、そこが起点になって、後で自在に変わっていくことができます。


もうねえ
言ってることがズバズバ突き刺さる。
すっかり西洋的な”レッスン”になってしまってないか?
なんでも言葉で説明してしまってないか?
ちゃんと待ってるか?
私こそがちゃんとお稽古を続けて、まねてもらえるような人であるのか?

まだまだまだまだ!やわ。